世界は誰かの仕事でできている。

2014年、12歳の頃、テレビでジョージアのCMを見て衝撃を受けました。
どれくらい衝撃を受けたかというと、自動販売機でそのコピーを見つける度に立ち止まってしまうくらい。

私の父はペンキ屋、塗装職人です。
口を開けば「仕事を休みたい」と言いながらも、朝4時や5時には起きて現場に向かう人。

このコピーを見て、父もどこかの誰かのためになっているんだと感じて、幼いながら衝撃を受けたんだと思います。

本当に、世界は誰かの仕事でできている。

現場で働く父の姿は見たことがなかったけれど、誇らしかったんだと思います。
そして、家に帰れば私と弟をいつでも笑わせてくれる父は本当にすごくて、大好きです。

それと同時に、こころから嫌いで許せないところがあります。

専業主婦の母のことを尊重・尊敬していないこと。
あるとき父は言いました。

「俺が外で働いとんねんから、家のことやっとったらええねん」

まるで、母は何もせず暇をしているように言う。

子育てと家事をしながら、個人事業主である父の経費精算や年末調整、職人さんへの支払いをはじめとする経理業務を行っていました。

寝て、起きて、仕事に行けるのは、おひさまの匂いに包まれた布団を用意したり、汗やペンキで汚れたごとぎ(仕事着)を洗ってくれているから。

仕事をするにも、快適にする仕事をしてくれる人がいてのこと。
それを理解せず、当たり前に享受し、敬意もなければ感謝の言葉もない。

近くで見ていたからこそ、許せなかった。
そして、疲弊していく母を見るのがつらかった。

世界は誰かの仕事でできている。

誰かが誰かのためにつとめているのに、それが認められないことが悔しかった。
父も母のことも好きなのに、尊重されていないという事実が苦しくて、純粋な気持ちを持てなかった。

何とかして母を尊重・尊敬してほしいと父に伝えたかったけれど、当時小学生の私は感じているものが尊重・尊敬だとわかっていない。伝えられませんでした。

「その分、私がやる」

漠然とみんな幸せでいてほしい、それなら自分が幸せにしようと、幼いながら覚悟を決めたように思います。

大学生になり、白潟総研のインターンを始めたときのこと。
ある会社の打ち合わせに同席し、会食にまで連れて行ってもらいました。

当時の私はまだ社長という生き物をよくわかっていなくて、「偉そうな人なんだろうな」「また学生扱いされるんだろうな」そう思っていました。

いざ、お話ししてみると、ビジネスの話に全く関係のない私に興味を持ってくれて、話を聞いてくれて、意見の尊重までしてくれる。

「学生」ではなく「一人の人間」として接してくださったことがとても嬉しかった。

私もこの社長のようにどんな立場のどんな人とも、一人の人間として対峙したい。

そして、その社長とのご縁を切りたくない。
そんな一心で私はコンサルタントになりました。

コンサルタントは経営者や社員、それぞれの想いを尊重し、尊敬したうえで、一番良い方法を一緒に見つけていく仕事。

いろんな人と関わる仕事です。
人の数だけ想いはあるし、感情だってある。

だからこそ私は、肩書きや立場にとらわれず、一人の人間として向き合って、隠れた強みや想いを引き出して、納得した上で進められる力になりたい。

世界は誰かの仕事でできている。

だからこそ、一人ひとりが尊重し合える。
そんな力になれるコンサルタントでありたいと思っています。

私は工業高校から大学へ進学し、信用金庫へ入庫した異色の経歴の持ち主です。

前職の信用金庫には15年勤務しておりました。
入社した経緯は、当時支店長であった叔父のようになりたいと思ったからです。

入庫当初は同期最速で昇進し、支店長になるという目標がありました。その目標に向かい、取り組む仕事では常に1番を意識し、日々仕事に邁進しておりました。

しかし、勤務年数が経つに連れ、組織の在り方、評価制度に違和感を覚えました。どれだけ成果を上げても支店長に好かれなければ評価されない。支店長の発言が絶対的であり、自身の思いはほぼ反映されない。成績のためにお客様にとって望ましくない商品を販売しなければならない。お客様本位で仕事をすることができない。何も成果を上げていないのに資格さえあれば昇格出来る。などの違和感が日に日に増していきました。
(今はそんなことないです。めちゃくちゃお客様本位で働きやすい信用金庫です。)

そんな中、創業時より主力金融機関としてご利用下さっていたお客様の住宅ローンを通すことができず、唯一審査部と直接交渉の出来る支店長に相談したものの、全くかけあってくれず、結局お断わりすることとなりました。この時にお客様のために真剣に向き合えない上司とこれ以上は働けないと思い、ずっと我慢していたものが途切れることとなりました。

そして、転職活動をスタートしました。

転職後は自身の成果が正当に評価される業界へ進みたいと思い、M&A業界に絞り転職活動を行いました。しかし、面接を重ねる中で、過去の営業成績や、どれだけ身を削る覚悟があるかばかり問われ、自身が最も重要とするお客様第一の取り組みができないことが分かり、このまま転職活動を続けるべきか考えることになりました。

今後の方向性について考えている中、Youtube、X(当時のTwitter)でフォローをしていた元銀行員でM&Aに特化した事業を運営されている方が私の参加するイベントに来られることが分かり、その方を目掛けてイベントに参加しました。すると、私の思いを聞き取って下さり、その思いが叶えられる企業があるので紹介しましょうかと言われました。

自身の思いが叶えれる企業があればぜひ、紹介してくださいと伝え、現在所属する白潟総合研究所株式会社を紹介してもらいました。

いざ、面談してみると自身の求めるお客様本位で活動出来る環境があり、ここで働きたいと思いました。そして、自身の思いをありのままに伝え、採用してもらうこととなりました。

現在38歳。転職して1年数ヶ月ですが、自身が求めるお客様本位の活動が出来ており、会う人会う人にめちゃくちゃいい顔しているねと言われるようになりました。

今後もお客様本位の活動をモットーに自身の能力を高め、さらなる価値提供の出来るコンサルになりたいと思います。

「なんでこんなに働いてるのに家に入れるお金が少ないの?」

経営者をしていた父が家に入れるお金を見て、母がよくこぼしていた言葉です。
私の家庭は外から見ると良い家族でしたが、実情は両親の喧嘩が絶えなかったり、陰で互いの悪口を私に言っているような家庭で育ちました。

父は私が小学生の頃にゲームセンター事業で起業しました。
事業が好調な時もあれば、思うようにいかない時もある。その浮き沈みを間近で見てきました。

そんな父の少しでも力になりたいと思った私は、当時小学生の間で流行っているものを父に教えることもありました。
それでも「経営」は小学生のアドバイスで好転するほど甘くありません。
現状は大きく変わることなく、「何の力にもなれない」という無力感だけが当時の私の感情を支配していました。

無力感と同時に、他に感じていたこともありました。
それは、苦しい状況下であっても、従業員が少ない中でも父が責任を持って働き続ける姿です。だからこそ、「経営者を支える存在になる」、そして「周りにいる人やその子供が苦しむことのない社会にしたい」という気持ちが自然と芽生えるようになっていきました。

1社の経営者、そして中で働く人たちが元気になり、家庭も元気になる。
そんな世界を作りたいと思って社会人への一歩を踏み出し、コンサルタントという道を歩みはじめたんです。

コンサルタントとして働く中で特に感じたこと。
それはどれだけ「良い会社」であっても、”イメージ”だけで選ばれにくくなるという現実です。
どれほど魅力的な人が集まり、魅力的な事業をしていても「中小」「ベンチャー」というだけで候補者に届かない。
知ってもらえても、“イメージの良い”会社に人材を奪われてしまうのです。

ただ、私は同時に「本当に良い企業なら必ず採用で勝てる」とも感じました。
経営者が諦めずに採用に取り組めば、必ず自社に合う人材と出会える。
逆に諦めてしまえば、社長は人材不足に苦しみ続けることになります。
だからこそ、採用は中小ベンチャー企業の経営者にとって最も重要な経営課題の一つだと考えています。

人がいないとき、事業が思うように進まないとき、最後に踏ん張っているのは経営者です。
その社長を採用の面から支えることで、経営者自身が安心して挑戦できるようにしたい。
そして結果として、社員やその家族も、周りにいる子どもたちも、辛い想いをせずに済む社会を実現したいのです。

日本の99.7%は中小企業。
だからこそ、一社でも多くの中小ベンチャー企業が優秀な人材と出会い、採用に成功することが、日本全体を元気にすることにつながると信じています。

私のまわりには、すごい人がたくさんいます。
「親が経営者で、その背中を見て育ち、経営コンサルタントに興味を持った」という人。
志を持ってコンサルタントになり、理想の未来を描いて突き進む人。

そうやって、しっかりとした想いや夢を持って働いている姿は本当にまぶしく見えます。
ある意味、コンサル業界では「そうあること」が求められる世界なのかもしれません。

でも私はというと、特別な夢や目標があるわけではないんです。

学生時代はいろんなことに挑戦してきました。
習い事も部活も、目の前の「やりたいこと」に夢中になってきたタイプです。
「今を楽しむ」ことには自信があるし、「夢や目標なんて、究極なくてもいいんじゃないか」
そう思っている自分もいます。

それでも、「10年後どうなっていたい?」「何を目指してるの?」と聞かれると、
まるで自分の生き方を否定されているような気持ちになることがあるんです。

コンサルタントになったのも、実は「たまたま」。

スカウトをきっかけに白潟総研にビジネス職で入社し、
そこで「コンサルタント向いてるんじゃない?」と言われて、今に至ります。

ただ、その「たまたま」の中で出会えたのが「中小ベンチャー企業の社長の生き様」でした。

明確なビジョンを持って突き進む社長。
会社の成長と、社員の生活のバランスに悩みながら進む社長。
目の前のことで精一杯になりながらも、必死に立ち向かっている社長。

どの社長も、本当にかっこよかったです。

たしかに、夢や目標に向かって一直線に進む姿も素敵です。
でも実際の経営って、そんなにきれいに進むものじゃない。

思い通りにいかないこともあるし、迷うこともある。
そもそも、経営も人生も「人」がやることだから、いろんな揺れや葛藤があるのは当たり前だと思うんです。

だからこそ目の前の社長の「今」に寄り添ったり、肯定することはできる。

私は、目標がはっきりしていなくても、途中でビジョンが変わるかもしれなくても、「社長の今」に向き合い続けられるコンサルタントでいたい。
そして、それを自分の誇りにできたらいいな、と思っています。

『銀行員から経営者になりたかった私が見つけた答え』

これは、私がなぜ安定した銀行を辞めてコンサルタントとして白潟総研に転職を決めたのか、そして仲間と出会ってどう変わったのかを、自分自身の生い立ちも交えてお話しするストーリーです。

目次

1. とにかく熱中したら止まらない――僕という人間

私は東京生まれ、福井県育ち。
幼い頃から、何かにハマると止まらないタイプでした。

小学生のころは、陸上とバスケットボールに夢中でした。
両競技で全国大会出場という経験もあります。

当時は練習しすぎて、疲労骨折を3回もしてしまったほど(笑)。
無茶でしたが、それだけ「勝ちたい」「上を目指したい」という気持ちが強かったんです。

この「熱中力」は、今も変わりません。
仕事でも趣味でも、夢中になったらとことん突き詰める性格です。

2. なぜ白潟総研だったのか?

私が白潟総合研究所に惹かれたのは、“子会社社長”という制度に出会ったからです。

好きな「社長のコンサルティング」という仕事をしながら、
同時に自分自身も経営者として学び、挑戦できる環境がある。
これは私にとって、本当に“目から鱗”の制度でした。

3. なぜ、名古屋支社を立ち上げたのか?

私が支社を立ち上げたのは名古屋です。
その理由には、少し個人的な想いがあります。

実は、大学時代を愛知県で過ごしました。
本当は、卒業後も名古屋で就職したかったのですが、その想いは叶わず…
関西の地方銀行に入行することになりました。

それでも名古屋への想いは強く、
毎週金曜の仕事終わりには大学時代の友人に会いたくて名古屋へ通っていたほどです。

「いつか、名古屋で働きたい」
「この街でもう一度、自分の居場所をつくりたい」

そんな心残りのような想いが、ずっと胸の中にありました。

だからこそ、「独立するなら名古屋で」と決めていたんです。
自分の“第二のふるさと”である名古屋で、地域の企業に本気で寄り添いたい。
それが、私の原点です。

4. 銀行から経営者になりたいと思った理由

銀行員として10年間、法人営業に携わってきました。
資金繰り、事業再生、M&A支援など、さまざまな経営課題と向き合ってきた中で、
次第に強く思うようになったのが、

「自分も経営者になりたい」

という想いでした。
この気持ちには、大きく2つの理由があります。

【理由①】家系が商売人。血が騒ぎ出した
私の親族は、商売人の家系です。
子どもの頃から「自分の店を持つ」「自分で商売をする」大人たちを見て育ちました。

銀行に入り、企業支援の現場に立つ中で、
徐々に商売人の血が騒ぎ出してきたんです。

「支援する側じゃなく、自分が当事者としてやってみたい」
「経営にど真ん中で関わって、勝負したい」

そんな気持ちが、どんどん膨らんでいきました。

【理由②】“自分の価値”を確かめたかった
もうひとつの理由は、

「自分という存在が、ビジネスの中でどんな価値を持てるのかを知りたかった」

という純粋な探求心でした。

銀行員として働いていると、
肩書きやブランドがついてくる分、「個としての価値」が見えづらくなってしまう瞬間があるんです。

「自分という人間が、何を提供できるのか」
「看板を外しても、選ばれる存在でいられるか」

それを試したくなったのも、転職を決意した大きな理由のひとつです。

5. 目指したのは「名古屋No.1のコンサル会社」

目指したのは、名古屋で一番頼られるコンサル会社。

机上の空論ではなく、現場で汗をかきながら成果を出す。
そんな“実行支援型”のコンサルティング集団をつくることを目標に掲げました。

6. M&A業界初?チーム制の導入へ

東京メンバーとは、M&A仲介業界では珍しい「チーム制」を導入しました。

マーケティング、営業、コンサル、事務――
それぞれが得意分野を生かし、ひとつの目的に向かって一体化した組織をつくったんです。

その結果、顧客満足度や成果も格段に向上。
そしてなにより、

「中小・ベンチャー企業の社長を元気にする」目的意識をもったメンバーと働くって最高だと、私が実感していることです。

お互いに信頼し、支え合いながら、ひとつのゴールに向かって走れる。

それが、私にとっての最高の働き方です。

7. 名古屋という“第二のふるさと”で挑み続ける

名古屋は、私にとっての“第二の地元”です。

大学時代を過ごし、戻りたいと願い続けたこの街で、
今、私は仲間たちと一緒に、本気で走り続けています。

「名古屋でNo.1のコンサル会社をつくる」
その目標を実現するために走り続けます!!

私は大学時代、研究に没頭していました。国際学会での発表や論文執筆にも取り組み、将来は研究者として専門性を深める道を歩もうと考えていました。

しかし、人生は予想外の出来事で大きく方向を変えます。弟が大学を中退し、家に引きこもるようになったのです。家族の仲も険悪になっていく中、「自分が弟の働く場所を作らなければならないのではないか」と思うようになりました。その瞬間、研究の道から一転、就職を決意しました。

社会のこと、事業のこと、お金のことを深く学べる場所として選んだのが、みずほ銀行でした。私は法人営業として都内の中堅・中小企業を担当し、日々多くの経営者と接する中で、自分の中にひとつの確信が生まれていきました。「自分は中小企業の社長が大好きだ」と。困っている経営者の力になりたい、感謝される仕事がしたいという思いが、私の働く理由でした。

しかし、銀行としてできる支援の限界も次第に見えてきました。金融商品しか扱えず、本質的な経営課題には踏み込めない。しかも、銀行全体としても中小企業支援から距離を取り始めていました。銀行として儲かる取引しかできない、支援したいお客様に自分の時間を使えない。そんな状況から次第に働く目的を見失っていったのです。

そんなとき、白潟総研からM&A事業部立ち上げのオファーをいただき、私は新しい世界へと飛び込みました。知識も経験もゼロからのスタートでしたが、「ここなら本当に中小企業の力になれる」と信じて、一心に学び、仕事に取組みました。

そして迎えた、初めての成約案件。それは、資金繰りが限界を迎え、倒産寸前に追い込まれていた企業でした。時間との勝負。資料をそろえ、相手先を探し、関係者と必死に調整し続ける毎日。正直、何度も「もう間に合わないかもしれない」と思いました。

けれど、諦めませんでした。どうにかして、この会社を残したい。その一心でした。そしてついに、譲渡先が見つかり、無事成約に至ったのです。

社長からは何度も「本当にありがとう」と謝意をお伝えいただきました。あの時の表情は、今でも鮮明に思い出せます。自分が関わったことで、事業が続き、社員の雇用が守られた。これこそが、私がやりたかった仕事だと、心の底から確信した瞬間でした。

しかしその一方で、別の案件では、成約まであと一歩というところで支援が間に合わず、企業が倒産してしまいました。その会社も厳しい状況にあり、私は全力で動いていました。でも、時間が足りなかった。社長とはその後は連絡が取れず、どこかで自責の念を抱えながら、今も思い出すことがあります。

この2つの経験は、私にとって人生を分けるような体験でした。企業再生の現場には、経営者の人生、従業員の生活、地域の未来、そしてそれらに懸ける“想い”が詰まっています。その重みを受け止め、覚悟を持って向き合わなければならない。そう心に刻んでいます。

今、日本の中小企業はかつてないほど厳しい状況に置かれています。私がM&Aの仕事を通じて多く関わってきた「企業再生」という領域は、今後ますます重要になっていくと確信しています。再生は単なる企業の統合ではありません。事業を次世代につなげ、経営者の想いを未来へ引き継ぐ、社会的に極めて意義のある仕事です。

私はこの企業再生の仕事を、自分の使命として取り組んでいきたい。そして、将来的には自分自身で事業を立ち上げ、弟のように生きづらさを抱える人にも、働く場所と希望を提供できる存在になりたいと考えています。

時は2020年、ある若手営業マンがいた。
人の役に立つことにやりがいを感じていた彼は、人生をかけて役に立つべく外資系の生命保険会社でフルコミッションの営業として働き始めた。

ただ、成果がすべての世界。
契約が取れなければ数か月先の生活が危うくなる過酷な日々だった。
紹介が停滞すると、昼間は複数のマッサージ店やパーソナルジムに飛び込み営業。
マッサージ師やトレーナーと仲良くなり契約をお預かりする。
気づけば行きつけのマッサージ屋は3店、契約しているトレーナーは3人、毎月のマッサージ代とジム代は月10万以上という若気の至りぶり。
(当時付き合っていた彼女とは上記が原因でお別れしました。理由1)

そして夜になれば、舞台は繁華街へ。
合コン、街コン、さらにはナンパと、人脈開拓に勤しむ日々。
(当時付き合っていた彼女とは上記が原因でお別れしました。理由2)
出会った人たちを男女でマッチングしながら、ちゃっかり保険提案へとつなげていた。
契約してくれた人からは「恋のキューピット」なんて呼ばれることもあった、、、でも、実態はただの必死な営業マンだった…

そんな中、先輩社員の同行や営業活動を通じて、多くの経営者と出会い、「事業承継」という課題に触れる。
後継者がいない、社員を守りたい、会社を未来につなぎたい、その声を聞き、「一番大変なときに役に立ちたい」という熱い思いが再燃した。

しかし、「保険営業マンは、保険しか提案できない。」という現実と自分の無力さを痛感する。
自分が届けたい価値と、会社で許される提案との間には深い溝があったのだ。

その現実に直面した彼は、もっと広い視野で経営者の未来に関わるため、M&A業界へ転職を決意する。
しかし、M&A会社のいくつもの面接や説明を受ける中で、新たな現実に直面する。
どの会社も「企業を売らせるか、買わせるか」という硬直した取引支援のみ。
社長が抱えている本当の課題すなわち組織の問題、人材育成、理念の継承そういった課題は見て見ぬふりをする。

そんなとき、彼は白潟総研と出会う。
そこには組織コンサルティングや後継者育成など、「売るか買うか」だけではない本質的なサポートを提供する仕組みがあった。
「ここなら、自分が求めていた人の役に立つ、意義のある仕事ができる」。
こうして、昼はマッサージとジムを渡り歩き、夜は繁華街でキューピッド活動をしていた保険営業マンは、真に経営者の力となるための企業間のキューピッドになるべく新たなステージへと進んだ。

これまでに積み上げた泥臭さと行動力、そして何より「相手の本当のニーズに寄り添い、何とか力になりたい」という根底にある想いで経営者の悩みに寄り添います。

私が目指すコンサル像は、「翻訳者」です。

中小ベンチャー企業の社長が目指す世界や、譲れない想い。
社長が目をキラキラ輝かせながら語るそれに、何度も心を動かされてきました。

でも、いろいろな障害物によってそれが一番伝わるべき社員に伝わらないことも多いという悩みもよく伺います。
それが社長のストレスになり、いろいろなところに支障をきたしていく。

そんな社長を見てきました。

だから、私は翻訳者になりたい。
社長の想いやこだわり、考えを言葉にし、それが社内に伝わる支援や伝わる方法論を示していける存在になりたい。

こう思った原体験を言葉にしてみたいと思います。

前職時代

私が新卒で入社したのは、150名ほどの収益用不動産会社でした。

具体的なやりたいことはないけど、長期的な目線で誰かの「不安」をなくせる仕事がしたい。そして、文化祭みたいな、自分が熱狂できるチームで働きたい。

ひたすら自己分析した結果こんな就活軸になり、私はこの会社に入社したのです。

実際入社してみても、就活当時に持っていたイメージとは相違ありませんでした。
社長の強力なリーダーシップのもと運営されるトップダウン型組織。
社長の「らしさ」や「実現したいミッション」は強く感じるし、いい人も多いし、勢いのあるチームでした。

しかし、仕事に慣れてきた2年目。コロナや立て続く社内の事件もあり、ちぐはぐ感を感じるようになってしまいました。

なぜ行うのかが分からない施策。
解決したいことと繋がっていないように感じる方針。
施策のWhyを伝えられないミドルマネージャー。「まぁ、社長の会社だからね~」という口癖を聞いて、強い違和感を覚えたことを今でも思い出します。

会社に愛着を感じている現場メンバーも多く、何が変わればいいのかと議論が始まることもよくありました。
でも、少しでも会社の方針に対して疑問を呈すれば、痛い目を見ると分かっている…(実際そんなことなかったのかもしれないけれど、私はそう感じてしまっていました)。
そんな諦めを感じるメンバーも多く、離職が続いている時期でした。

社員にとっても、社長にとっても、「よくない」時期。
ただ、そのときの私は、自分では何も変えられるはずもないと思ってしまっていました。
せめて社長や幹部の考えを少しでも理解しようと動くこともできませんでした。

私は転職を考え始めたのです。

白潟総研に入って

転職時も、「具体的なやりたいことはないけれど、誰かの不安をなくしたい。熱狂できるチームで働きたい。」という軸は変わりませんでした。

そんな中で白潟総研に出会い、ほぼ直感で入社することを心に決めます。
(意外と直感タイプなんです…)

そのあと考えたことは、自分が前職時代に感じていた「ちぐはぐ感」がない組織づくりのお手伝いができるのではないかということでした。

前職で経験したような組織の混沌は、誰にとっても良い状態ではない。
社長も、マネージャーも、社員も、目をキラキラさせて働けなくなる。
そんな人を、社長を減らしたい。

そして実際に白潟総研に入社することになりました。

入社後、実際に支援に携わることになって強烈に感じたことは、2つありました。

社長は、お客様・会社・社員のことを誰よりも思っているということ。
ただし、想いや考えていることが、社員に伝わることは簡単ではないということ。

例えば、経営について誰よりも学び、自社に取り入れようとしている社長。
社長が大事にしていることはずっと同じなのに、伝える言葉が変わることによって、社員からはコロコロ変わっていると思われていたり。

例えば、どんな会社を作っていきたいかを言葉にしきれていない社長。
社長の中で目指したい姿のイメージはあるけれど、言葉に落とし込めてなくて社長自身にエンジンがかかっていなかったり。

前職の社長もそうだったのかもしれない、と今になって思います。
大事にしたいことは変わっていないのに、コロナや組織で起こるいろいろな問題を受けて、迷っていたのかもしれないな、と。
社長が想いやひとつひとつの施策の理由を言葉にする勇気が出ないくらい。

だからこそ私は、社長の想いや譲れない想いを理解し、それを翻訳できるコンサルタントでありたいと思うのです。

小さい頃、父は私にとってのヒーローでした。
零細企業ではあるものの、会社を経営し、保険の代理店を営む父。
父こそ、私にとって初めての社長という人種との出会いでした。

優しくて、なんでも知っている。どんな質問をしても答えてくれて、子ども扱いせずに一人の人間として会話してくれる。そんな父が大好きでした。

ですが思春期になると、見え方は変わっていきます。
誠実な人柄でありながら、口下手な父の姿。優しいけど押しが弱く、ちょっと頼りなく見える態度。子どもの私には、それらが格好悪く見えたんです。

高校生のある日、一本の電話が学校にかかってきました。
「父が事故で頭を打ち、最近の記憶を失ったらしい」と。

命に別状はなく、大事にはならなかったものの、母も私も動揺を隠せませんでした。
内心心配しながら「どれくらい入院するの?」ときくと、父は「社員の生活もある。私は休めない」ときっぱりとした回答。

思えばこれが、初めて見た社長としての父の姿だったのだと思います。
家族と同じくらい、もしくはそれ以上に社員のことを思う父。正直、その覚悟と想いは当時の私に理解できたわけではありません。ただ、その衝撃的な一言は私の心に深く残りました。父のことを、社長という人種を、「わかりたい」と考えるようになったんです。

そんな思いもあり、大学では経営学を学びました。しかし、そこで語られるのは大企業や世界の有名企業の話ばかり。父のような中小企業の現実はどこにもなく、「このままでは父のことが分かるようにならないのではないか」と悩みました。

そこでたどり着いたのが、中小企業コンサルタントという仕事です。

この仕事に就きしばらくたって、”経営者の父”とも少しずつ話せるようになってきました。
そして見えてきたのは、熱い想いや考えを持ちながらも「本当にこれでいいのか」と悩み、「社員にどうやって伝えればいいのか」に苦悩する父の姿です。

そんな父と同じように悩む経営者のお役に立てればと思い、コンサルティングをしています。社長の素敵な想いを整理し、言語化し、社員や社外に伝わる形にすることで、よりよい組織づくりに貢献できれば嬉しいです。

かつて私は、大学で「平等とは何か?」という哲学的問いに向き合っていました。
理由は至極単純で、理不尽と不平等が嫌いだからです。

この世は理不尽と不平等で溢れています。

実際に、我々が最初に経験する理不尽が出生です。
この世に生を受けることを望んでいないのに
勝手に誕生させられるわけですから、理にはかなっていないですよね。

さらに醜いのは、出生の理不尽が不平等に分配されていること。
富は継がれ、貧もまた継がれる。富は子を富ませ、貧は子を貧さす。

だからこそ大学時代に目指していたのは
「この世の”不平等”という不正を暴き、平等の正しさを証明すること」でした

当時の私にとって平等の研究は、自分の全てでした。
(興味のない授業は参加せずに単位を落としてしまうくらい…)

そして、研究がかなり進んできたある日のこと…
哲学好きの友人に平等研究の話をしたところ、こんな言葉が返ってきました。

「え、その研究者、誰?」
「へ~そんな人いたんだ」

驚きと、悲しさと、無力感。いろんな感情が渦巻きました。

平等の分野では著名なはずのその哲学者は、哲学好きな友人に知られていなかった。
そのとき、私は気づかざるを得ませんでした。

どれだけ不平等の不正を暴き、平等の正しさを証明しても…
それが誰にも届かず、現実を動かさないなら、「存在しないのと同じ」だと

誰にも聞かれない歌、誰にも読まれない小説。これらは確かに存在しています。
しかし、あってもなくても、誰も困らない。何も変わらない。

平等の研究も「同じ道を辿るだろうな」と思いました。世の中は”平等”という、何だか嘘っぱちに聞こえる面倒くさい綺麗ごとに、興味がないんです。

そんな「存在しないもの」を生み出すことに、自分の人生は使いたくないと思いました。
ならば、現実を動かす場所=ビジネスに飛び込むしかない。

「どんな仕事をしよう」

そう考えていた時期に光となったのが、経営者である父の存在でした。
私の父は栗せんべいを作る、和菓子メーカーの2代目社長でした。
(現在は会社をたたんで老後生活を満喫しています)

私は幼いころから、お客様や従業員のために、
身を粉にして働いている父の姿を見てきました。

家に帰ると、服を脱ぎ捨て、ソファに沈み込む。
夜ご飯を食べて、酒を片手に虚ろな目でテレビを眺める。

大変な仕事だったのだろうなと思います。
実際に当時の父は、母から「瞬間湯沸かし器」と呼ばれるくらい短気で、
気難しい人間でもありました。

それでも父は誇りを持って経営の現場に立ち続けていました。

ちなみに大人になってから知ったことですが、当時は数千万円の借入があったそうです…。
借入を全て返し、従業員に報い、利益を残して
会社をたたんだ父の生き方は、本当にかっこいい。

だからこそ「経営者を支える」という仕事は、人生を捧げる価値があるものに思えました。

平等の研究から一転ビジネスの世界で勝負することになって
そのフィールドとして「経営コンサルタント」を選び、白潟総研に入社した。

ただコンサルタントになってからも
「何かを研究・探求する」という姿勢は変わりませんでした。

研究・探求するテーマが「平等な社会」から「人はなぜ動くのか」へと姿を変えただけです。(このテーマの研究・探求を始めたのは”人間”という生き物に興味があったからだと思います)

実際に入社してからは、行動経済学、脳科学、カルト宗教、アイドルなど、
「人はなぜ動くのか」を問うあらゆる分野から研究・探究を続けています。

そしてその知見を組織づくりやマネージャー/幹部育成に繋げ
父のような経営者を少しでもサポートすることが、私の人生の意味です。
だから私は、経営者を支える道を歩み続けようと思います。

 『「ワクワク仕事を楽しめる人を増やす」──私の挑戦と白潟総研での歩み』

私はずっと願ってきました。
「ワクワクしながら仕事を楽しめる人を、この社会にもっと増やしたい」と。

その想いこそが、私のキャリアの原点であり、どんな壁にぶつかっても揺らぐことのない支えです。大手企業での経験、理想と現実の葛藤、そして白潟総研との出会い──すべては、この想いを形にするための道のりでした。

社会人生活の原点にある想い

私の原点には「ワクワク仕事を楽しめる人を増やしたい」という強い願いがあります。社会に出てからもこの想いは揺らぐことなく、常に私を突き動かす軸でした。人が「働く」という領域で価値を提供できる存在となり、挑戦を通じて社会に何かを残したい。その夢と目標は、今でも私の支えになっています。経営者の方々が持つ志や挑戦心に少しでも寄り添える人材でありたいと願っています。

壁に直面して気づいた限界

私は大手人材会社やベンチャー企業で経験を積みましたが、やがて「プロダクトを提供するだけでは、価値を届けられる範囲が限られている」という現実に直面しました。サービス提供者とクライアントという関係を超えられないことに悩み、自分の理想とのギャップを痛感しました。そこで「企業の本質的な課題に踏み込み、共に未来を描ける立場になりたい」と考えるようになったのです。

変革のチャンスは中小企業にある

その過程で得た気づきは2つ。ひとつは、ワクワク仕事を楽しめる人を増やすには、採用の現場を語れるだけでなく、経営全般に関わる広い知識が不可欠であること。もうひとつは、日本の90%以上を占める中小企業こそ、変革のチャンスを秘めていることです。経営者の皆さまと直接向き合い、組織づくりや人材戦略を支えることで、社会に大きなインパクトをもたらせると確信しました。

白潟総研との出会いが導いた新たな挑戦

転職活動を通じて出会ったのが白潟総研でした。代表・白潟の書籍を手に取ったことが最初のきっかけです。「中小ベンチャー企業の社長を元気にする」という存在意義に深く共感し、ここでなら理想を形にできると直感しました。白潟総研を通じて「ワクワク仕事を楽しめる人で溢れる会社」を増やすことは、日本全体の力を底上げし、より良い社会を築くことにつながると信じています。

愚直に前進することで得た教訓

私が学んだのは、人生をかけて成し遂げたい想いを言語化し、指針として愚直に歩み続けることの大切さです。小さな一歩の積み重ねが必ず大きな成果へとつながる。これからも白潟総研で、中小ベンチャー企業の社長の皆さまと共に、組織の未来を形づくる挑戦を重ねていきます。



私が歩んできた道と、白潟総研での挑戦をお伝えしました。経営者の皆さまの想いに寄り添い、共に課題を乗り越え、未来を創る。その伴走者であり続けたいと願っています。
ワクワクに満ちた社会を実現するため、これからも愚直に挑戦を続けてまいります。

『社長を愛するコンサルタントとして、白潟総研の幹部として、私が目指したい姿。』

「社長の分身として夢を共に叶える幹部になりたい」
そして全ての社長にそんな存在をつくる支援がしたい。

経営者は「孤独」である。
私が新卒でトーマツに入社し、コンサルタントとして初めて学んだのが、この言葉でした。

親が経営者なわけでもない、経済や経営を学んだわけでもない、経営者が孤独だということなど、何も理解していない私が、コンサルタントに興味を持ったのは、学生時代のアルバイトがきっかけでした。

サークルにも入らず、居酒屋のアルバイトに明け暮れていました。オープニングスタッフとして立ち上げから携わり、閉店後は店長や料理長と一緒に「どうすればもっと良いお店にできるか?売上を上げられるか?」と語り合う毎日。

そんな経験から、自然と「悩んでいる経営者の役に立てる仕事」に興味を持ち、コンサルタント業界に飛び込みました。

当時の私は、「楽しそう!やってみたい!」という思いだけで、経営者が抱える本当の苦悩や孤独を何ひとつ知りませんでした。

数えきれないほどの社長にお会いし、様々なお悩みを聞かせていただく中で、ようやく経営者のリアルを実感しました。

みなさんが共通して語られるのは「幹部に対する悩み」。信じられる右腕がいない、夢を共に走ってくれる存在がいない。優秀な幹部はいるけれど幹部には相談できない悩みがある。その言葉の端々から、経営者は本当に孤独なんだと肌で感じたのです。

白潟と石川の関係

ただ、その考えが変わるきっかけがありました。
それは、白潟総研に入社し、白潟と、ナンバー2の石川の関係を見たときです。

石川は、白潟にとっての単なる幹部ではありませんでした。
役割や肩書きを超え、「白潟の夢を自分の夢にしている分身のような存在」。
白潟のビジョンを誰よりも理解し、どうすれば実現できるか?を四六時中考えている。

組織にひずみが生じそうなときには、白潟が言いたいであろうことを代弁してくれる。

その姿を間近で見たとき、私は気づきました。
必ずしも社長は孤独なわけではないのかもしれない。
社長にとっての“分身”と呼べる幹部の存在が、社長を孤独から解放してくれるのかもしれない。と

そして同時に、
「自分も社長にとっての分身のような幹部になりたい」
「そんな存在を世の中に増やしていきたい」と強く思いました。

肩書を超えた「絆」

では、どうすればそういう存在になれるのか。
白潟と石川の関係を見ていて気づいたのは、役割や肩書を超えた「絆」でした。

「自分は何を担当しているのか」ではなく、
「社長の夢をどう実現するのか」。
その視点で動いているからこそ、本物の右腕になれているのだと思います。

そして、その「絆」をつくるために欠かせないのが、徹底的な社長理解。

理解しているからこそ湧き上がる、心の底からの社長への尊敬と愛です。

会社経営や仕事上の目標だけでなく、
人としての思想・性格・その背景にある歴史までを知り尽くすこと。
さらに、めまぐるしく変化する経営環境を踏まえ、
「いま社長が何を考えているのか?」対話を通じて常に理解し続けること。

その積み重ねこそが、真の右腕となる基盤になるのだと感じました。

私の目指す姿

2023年、白潟総研の代表が白潟から石川へと承継されました。

白潟と石川の関係がそうであったように、
私自身も石川にとっての“分身”のような存在でありたい。
そして、世の中のすべての社長に、そんな幹部が必要だと確信しています。

だからこそまずは私が、社長のことを誰よりも理解しビジョン実現の方法を考える。

社外にいる分身の存在となり、そして社内にも 「社長にとっての分身と呼べる幹部」をつくっていくために全力を注いでいきます。

全ての社長が「孤独」から解放されることを願って。

入社当時は27歳、トーマツイノベーションの創業者である白潟さん、1つ上の先輩である哲也さんと一緒に働ける。(あとは同期の井上さん)
トーマツイノベーションは社員200名ほどの組織。当然不安もありましたが当時3名の白潟総研へ入社しました。
白潟さんたちとのコンサルティング、いろいろなことを吸収して、めっちゃ社長を元気できるコンサルになろう!と意気込んでいました。

ある程度はサービス提供できて、売上を上げることはできていたが、コンサルタントとして致命的な弱点が出てきました。
それは、「社長との会話をノリで回答してしまいズレた回答をしてしまう」、「社長の気持ちがわからず、不用意な回答をしてしまう」というものです。
お客さんである社長さんからいろいろなクレームをいただきました・・・。(白潟さんにもたくさん助けていただきました)

そこから白潟さんと相談して、個別レッスン(地獄の)をしてもらうことになりました。
どんなトレーニングかと言うと、自分が担当したコンサルの流れを振り返ったり、ロープレをしてもらったりなどでした。
(会話がいろんなところに飛んでしまうので、白潟さんには「ヒアリングボーイ」というあだ名をつけてもらいました笑)
トレーニング中に紙に書いた枚数は、1000枚以上、自分の個別練習でも同じくらいの枚数を書いていました。
土日の時間を使っていただき、合計60回以上、1年以上かけてトレーニングをしてもらいました。

トレーニングの効果は少しずつ効果が出てきて、社長との会話の流れがスムーズになり、社長さんに怪訝な顔をされることもなくなりました。
また紙に書くトレーニングを実施していたので、思考力も同時に上がったように感じています。

この経験を経て、もともと自分の中にあった哲学がハッキリと生まれてきました。
「努力は思ったよりも人を裏切らない」
「人間は誰だって目指せば、目指したような人になれる」

また、この哲学を持って活動をした結果、社内では最も異動が多いコンサルタントになりました。
人に関わるコンサルティングからM&Aの支援、PMIまでというのは、社内で最も幅広い支援の幅になりました。

社長のお悩みの多くを自分で解決できるようになる、そんな想いも持ち、日々活動しています。
(現在のメインは、M&A、PMIのところです)

『6度の転職を経て、結局は「人」だと思った私のすべて』

みなさま、こんにちは!白潟総研の吉田です。
今更ながら、私の自己紹介をさせて頂こうと思います。
「やんちゃだった少年期の話」から「転々とした社会人生活」、そして「白潟総研の入社理由」などなど、これまで生きてきた私の歴史が詰まってます。

ここでしか知れない貴重な話もてんこ盛りです!
ちょっぴりボリューミーではありますが、、、ぜひ最後までお付き合いください!

目次

1. とにかくやんちゃだった少年時代

幼少期の私は、とにかくやんちゃで活発な子どもでした。
それはもう、今の時代では考えられないくらい(笑)

両親が共働きで当時カギっ子だった私は、毎日団地の友達と大はしゃぎ。
粗大ごみを集めてきて、それを材料に木の上に秘密基地をつくったり、友達同士で大事なおもちゃを持ち寄っては箱に隠したり、知らない人の車の上にに飛び乗ってピョンピョンはねてみたり…。

さすがに、車の上で飛んだときは学校に呼び出され、警察にも怒られました(笑)

2. 勉強0%、野球100%の青春

そんなやんちゃな子ども時代を過ごした私が中学生になるとどうなったかというと、今度は勉強嫌いの野球少年になったんです。

中学校で始まった英語は5W1Hで挫折、他の教科もことごとくダメ。
唯一得意だったのが体育です。

小学校2年生の頃から始めた野球は中学でも続け、毎日朝から晩まで勉強そっちのけで野球に没頭していました。今思えば、この頃から「みんなで何かを成し遂げる」ことが好きだったのかもしれません。

そのあと高校受験でなんとか入ったのが、東京都立志村高等学校。

けれども高校生になっても勉強嫌いは治らず、毎日のように悪さをしては、親が年に何十回と学校に呼ばれる日々を過ごしていました。

そのときに、先生から母親に幾度となくいわれた言葉がこれです。
「あいつはいいやつだけど、勉強が恐ろしくできない。目指すものがないから、結局遊びに走るんだ。」

この調子でスムーズに卒業できるわけがなく、しかし背に腹は代えられない。ということで、最後は先生に「留年だけはよしてください!なんでもしますから!!」と土下座までしました。

とはいったものの、まさか本当に、好きなだけコキ使われるとは思いませんでしたが(笑)
掃除や授業準備の手伝いに、校門をしめてこい!などなどわけのわからぬ要求までされて、おかげで私は無事、ダブることなく卒業することができました。

3. 夢を追いかけて!でもお金が・・・

さあ、高校を卒業した私がどうしたかと言いますと、勉強をしたくないが故に「大学は行かずに、働こう!」と決心したんです。

最初に入ったのは、地元にあった自動車ミッションの修理工場です。
その当時から車が大好きで、「好きなことを仕事にしたい」と思って選んだのがこの会社でした。30人くらいの会社で、働いてる人はいい人ばかり。日中は仕事して、夜はみんなで麻雀大会というのが日課の毎日でした。

けれど、ひとつだけ問題だったのが給料の低さです。
初任給は、たしか手取りで10万5千円。
休みの度に渋谷や六本木で遊んでいた私には、これでは到底足りませんでした。

4. 月収28万円にひかれて入ったアコギな世界

「とにかくお金が欲しい!」というおもいで雑誌をペラペラめくっていると、「基本給28万円」という高収入の求人が目に飛び込んできました。そのまますぐに応募をし、なんと結果は採用!

ですが、実はそれが「商品先物取引」を売りにした、世の中的に超あくどい会社だったんです…。

( ※「商品先物取引」とは、株取引の商品版のようなもの。将来商品を受け渡すことを前提に、その価格と数量を決め、商品に対して投資する取引のことです。)

働き始めてすぐに、そのヤバさに気づきました。

富士山のふもとで行われた研修では、「毎朝5時起きで声出し→10㎞マラソン→社歌→午後に少し商品先物取引の勉強→社歌」の繰り返し。これを3週間続け、初めは25人いた同期も気づけばわずか8人になっていました。

配属後も、毎日朝から晩までタウンページのア行から順に休む間もなく電話をかける日々。

そんな生活を繰り返すうち、段々とそれが「人をだますような商売」だとわかり、それが嫌だと思ったんです。けれども時すでに遅し。入社して2ヶ月、「辞めたい」と会社に伝えても一切取り合ってもらえませんでした。毎月毎月「辞めたい」と言い続け、やっと辞められたのが1年後。

給料は間違いなくよかったけれど、今思えばそうして「お金で引き留めて人を働かせる会社」だったんだろうな…と思います。

5. 八丈島で“海の男”に俺はなる!

さて、あくどい仕事からやっとのことで逃れた私が次に選んだ就職先は、これまた雑誌で見つけた「漁師」の仕事。

高校時代から、「1度は一次産業で働いてみたいなあ…」と思っていたんです!
本当は山口で漁師になろうとしたんですが、さすがに当時の彼女(現・嫁)に止められまして、八丈島で漁師の仕事をはじめました。

このとき嫁さんのお母様にご挨拶に行ったんですが、見事に怒鳴られました。。。
「結婚もしないのに同棲なんてありえない!娘は絶対に連れて行かせない!!」とそれはもうすごい剣幕で。挙句の果てに塩までまかれました(笑)
それでもついてきてくれた嫁には、本当に感謝しています。

漁師の仕事ですが、夜中の3~4時ごろに始まります。この時間に漁に出て、戻ってくるのは夜7時。そのあと家に帰ってご飯を食べて風呂に入り、すぐに布団へ。そしてまた夜中2時に目を覚まして漁へ出発、という流れ。

休みはまちまちで、海がしけっている日と、とる魚がいない時期がお休みになります。
そんなときは工事現場でバイトをして、食いつないでいました。

6. “経営”の「け」の字も知らないコンサルタント

そんな漁師生活を5年ほど続けた頃ですかね。
歳も27くらいになり、「そろそろ結婚しなくては…!」と思ったわけです。
東京で挙式したのを機に「子どもも欲しいし、この不安定な生活のままではいけない」と東京に戻り、死ぬ気で就活に励みました。

このとき興味をもったのが、みなさんお待ちかね、経営コンサルタントです!
と言っても、このときはまだ「経営」という言葉さえ知りませんでした。

漁師時代に親方がお金のやりくりをしている様子をそばで見て、「どうしたら儲けが出るのか」にすごく興味があったんです。

片っ端から経営コンサルの会社を受けまくり、そのうち一つがトーマツ環境品質研究所(後のトーマツイノベーション)でした。この会社の最終面接で、当時まだ専務だった白潟さんと初めてお会いしました。一言も発しない社長の横で、すべて一人で進めていく白潟さんに対して、「なにやらよくわからないけど、すごい人なんだろうなあ」と思ったのを今でも覚えています。

この会社の面接には「絶対落ちた」と思ったので、翌日合格の電話をもらったときは本当に驚きました。ちなみに、あとから知ったんですが、どうやらこの年は「変わり者採用」だったようです。受けたのがこの年でなければ、いま私はここにいなかったかもしれません(笑)

7. コンサルとしてぶち当たったでかい壁

経営コンサルタントになれたのはいいけれど、しばらくは苦労の連続でした。

なんせ、経営の「け」の字も知らなかった私です。
知識なんて何一つないし、コンサルの要ともいえるロジカルシンキングも全くできていませんでした。上司に何か伝えようと思っても、「何を言ってるかわからない」と言われるのが常日頃。同期はみな昇格していき、自分ひとり取り残される現状にとても焦りました。

けれども支えてくれる同期がいて、私が常に考え続けられるようにといつでもどこでもロジシン・トレーニングに根気よく付き合ってくれる先輩もいて、周りの環境には恵まれていました。

それを3年ほど続けた頃、新しく立ち上げる大阪支社のメンバーに選んでもらえたんです!そのあと名古屋支社の立ち上げにも携わり、ついには東京支社の支社長に抜擢されました!

そして、その年に新卒で入社したのが、今では上司にあたる哲也さんだったりします。(いつの間にか立場逆転!く、くやしい。。。)

8. 同期とともに、初めての会社設立

そんなある日、事件は起きました。
当時トーマツイノベーションの社長だった白潟さんの退任が決まったんです…!

代わりに社長に就任したのは、当時のNo.2。
けれど、その人と白潟さんはやり方も考え方も、何もかもが違いました。
「この人のもとでは働けない」と思い、私も白潟さんを追うように退職を決意。

そして辞める宣言をすると、「その言葉を待ってたよ!」と同期に言われたんです。
「一緒に会社を立ち上げよう」と誘われ、四国で「ストロングポイント」という経営コンサルタントの会社を始めました。

しかし、そんな簡単に会社が立ち上がっていくわけもなく、キャッシュに追われる日々でした。銀行に行って何とかお金の借り入れができないか交渉したり、キャッシュアウト寸前で年金事務所に掛け合って、社会保険料の支払いを先に伸ばしてもらたり・・・私の四国と東京の往復で経費がかさんでいましたが、地方ではよそ者が受け入れてもらいにくかったり・・・それはもう事業をやっているというより、お金を何とか回しているという日々でした。。。

ちなみに、ストロングポイントは今では立派な会社になっています(笑)

9. 極論、何をやるかはどうでもいい!結局は誰と働くか!

そんな状態が5年ほど続き、「同期の方からは絶対にやめるとは言わないだろうから、自分がやめようと言わなければ…」と白潟さんのもとへ相談に行ったんです。

すると、「うちに来ないか?」と誘ってくださいました。
続けざまに、哲也さんからも「来なよ!」と電話が。

そうして私は、白潟総研に入社することを決めました。

決め手は、「人」です。
トーマツ時代の社長バトンタッチを経て、「極論、何をやるかはどうでもいい。誰と働くかが何より大切だ」と強く思いました。

同期と会社をおこすことを決めた時もそうでしたが、白潟総研への入社も、「白潟さんと哲也さんと一緒に働きたい」という想いからの決断です。

10. これから目指したい未来

こんな私も白潟総研で働き始めて長い月日が過ぎました。
これまで様々なことを経験してきましたが、最後に、これから目指す会社の未来について少しお話したいと思います。

まず、極論ではありますが、「中小・ベンチャー企業の社長が元気になればそれでいい!」と思っています。

これは私の経験した人生で生まれた強いおもいですが、「人を大切にし、人が強くつながりあい、世の中からはみ出た者でもチャンスが与えられる会社が、世の中に沢山できればいい」と思っているからです。

これを実現するセンターピンはやはり社長ではないでしょうか!?

必要なことは時代とともにどんどん変わっていきます。
だからこそ、その時そのときに必要なことをして、中小・ベンチャー企業の社長を元気にできれば、それが私のやりたいことです。

あとは強いて言えば、自分の人生や人を沢山見てきた経験から、「人を前向きにし、成長を促進していくこと」に興味があります。人は一者一様で正解はないですが、1人でも2人でも多くの人にチャンスや場が生み出せたら嬉しいです!

みなさま、これからもどうぞよろしくお願いいたします!