かわいいを再現した女性と、魂の露出を追求した女性
幼少期からずっと途方に暮れてしまう質問がありました。
それが「クラスで誰がかわいいと思う?」という質問です。
「いや知らないよ…別に思ったことないよ」当初はそう回答していましたが・・・
「クラスでかわいいと思う人は特にいない」という奴は、どうやら異端のようです。
「変な奴」とか「つまらないな」と言われてしまいました。
特にクラスの異端になる趣味はなかったので
それからは一番人気のある人の名前を挙げるようにしました。
そうしたら困ったことに
今度は「いやいや、その子より、あの子の方がかわいくない?」と
言われるようになりました。
「え、そう??まぁ確かにあの子もいいよね~」
(いや知らんて・・・しょうもな・・・)
この慣例は小学校だけではなく、
中学校、高校、大学と・・・恒例行事のように続きました。
どうやら世間にとって「誰をかわいいと思うか」は、よほど重要な問題のようです。
私にとっては
「なぜ人は生きるのか」「生きる意味は果たしてあるのか」の方が重要な問題なのですが…
でもよく考えてみるとおかしなもので
「別にクラスでかわいいと思う人はいない」と言いながらも
「マツコ・デラックスと新垣結衣どっちがかわいいと思う?」と問われたら
「そりゃ新垣結衣でしょ」と答える自分もいるのです。
どうやら私にも「何をかわいいと思うか」という、何らかの基準はあるようです。
またAKB48は「クラスで4番目くらいにかわいい人を集めた」と言われています。
「かわいい」には、個人的な尺度と、世間的な尺度が共存しているようです。
そして尺度があるということは
「かわいい」には明確な序列も存在している、ということです。
ですが私たちは、その正体をあまり分かっていません。
ただ少なくとも、「尺度が単一ではない」ことは、確かなのでしょう。
なぜなら、シワシワのおじいちゃんや、異形に見えるキャラクター(ちなみに私は未だにふなっしーの可愛さが分かりません・・・)に対してさえ、
近年は「かわいい」と表現されるからです。
何とも不思議な言葉です。
全てが、あらゆるものが「かわいい」で片づけられていく。
ほとんどの人にとって、かわいいの”質感”は、どうでもいいのかもしれません。
ああ、「かわいい」が余計、分からなくなる。
さて。
今回のブログでは、この摩訶不思議な概念、「かわいい」の正体に迫ります。
その過程で、経営の本質らしきものに迫るチャレンジをしてみました。
目次
かわいいの科学
「かわいい」を科学的な観点から解き明かそうとした研究もあります。
科学は「かわいい」をどう考えているのでしょうか?
まず指摘されるのが、その意味の多義性です。
広辞苑によると
① いたわしい、ふびんだ。かわいそうだ。
② 愛すべきである。深い愛情を感じる。
③ 小さくて美しい。
という定義が述べられています。
実際に私たちが「かわいい」という言葉を用いるときも、
文脈によって違う意味を与えています。
赤ちゃん、子犬、推しのアイドル、シワシワのおじいちゃん、異形のキャラクター。
これだけ対象が異なるのに、同じ「かわいい」という言葉が使われているのです。
そして科学研究を一通り見たところ、
かわいいの科学研究において重要な点は1つしかありません。
「かわいい」とは、客体ではなく主体に宿っている、という点です。
「あの子がかわいい」と言うとき、その子自身にかわいいという特徴が備わっているのではなく、それを見た私たちに「かわいい」という感情が生じている。
これはまあ何とも、拍子抜けな結論です。
科学ですら「かわいいとは極めて主観的な感情」という
私たちの直観通りの結論に辿り着くしかなかったようです。
実際に文芸批評家の四方田犬彦も実験心理学者の入戸野宏も
同じような結論を述べています。
「かわいい」とはものに宿る本質などではなく、「かわいい」と名付け、指さす行為なのではないかという解釈が、ここから生じる。それが証拠に、他人が愛で慈しんだ中古のヌイグルミは、いささかも「かわいく」ないのではないだろうか。「かわいい」のは、つねにわたしのヌイグルミだけなのだ。
四方田 犬彦 「かわいい」論 2006 筑摩書房
「かわいい」は、人やモノの属性ではなく、人やモノに接したときに私たちの中で生じる感情である。これが私の「かわいい」研究の出発点です。
入戸野 宏 「かわいい」のちから 実験で探るその心理 2019 化学同人
ただし「かわいい」という感情を引き起こす共通の要素があることも、
同時に研究で指摘されています。
代表的なのがベビースキーマです。
動物行動学者コンラート・ローレンツが1943年に提唱した概念です。
ベビースキーマとは赤ちゃんに共通する身体的特徴が、見る側に「守りたい」
「世話をしたい」というポジティブな感情を自動的に引き起こすという仮説です。
(具体的には丸い頭・大きな目・小さな鼻・ぽっちゃりした頬など)
興味深いのは、この反応が人間の赤ちゃんに限らないことです。
子犬、子猫、ぬいぐるみ、アニメキャラクター。
ベビースキーマ的な特徴を持つものであれば、人間は同じ反応を示します。
ハローキティがなぜ世界中で愛されるのか、
その答えは、ベビースキーマによって説明可能なのです。
また感性工学という分野では、人間の感性や感情を工学的に数値化・分析し、
ものづくりやデザインに応用しようとする試みがなされています。
「かわいい色」「かわいい形」「かわいい声」など、
かわいいという感情を引き起こす属性を一つ一つ実験で特定しようとします。
ただしこの分野が直面する根本的な壁もあります。
かわいいを構成する要素を特定すればするほど、
「でも同じ要素を持っていてもかわいくない場合がある」という例外が出てくるのです。
結局のところ、かわいいを完全に方程式にすることはできない。
主観的なものには、法則性がない。
だからこそ、木村ミサは天才なのです。
科学が成しえなかったことを、成しえてしまった実業家
木村ミサをご存じでしょうか。
KAWAII LAB.のプロデューサーとして
FRUITS ZIPPER、CUTIE STREET、CANDY TUNEなどの
大ヒットアイドルグループを世に送り出している人物です。
木村ミサが成し遂げたことは、偉業です。
FRUITS ZIPPERの代表曲「わたしの一番かわいいところ」は
TikTok総再生回数30億回を突破しています。
単純計算で日本の全人口が一人あたり25回再生した計算になります。
ちなみに・・・
弊社代表の石川もFRUITS ZIPPERにドハマりして
ある連休明けから「私の一番かわいいところに気づいてる〜♪」と歌い始めました笑
石川が個人的にKAWAII LAB.の研究を始めたのも、そのためみたいです。
話を戻すと
FRUITS ZIPPERはデビューからわずか4年で、
2026年2月に東京ドーム単独公演を実現し、約5万人を動員しました。
同規模のアーティストが通常10年以上かけて辿り着く場所に、4年で立ったのです。
FRUITS ZIPPERだけではありません。
妹分グループCANDY TUNEの「倍倍FIGHT!」はTikTok総再生回数50億回超。
CUTIE STREETの「かわいいだけじゃだめですか?」は63億回超。
一つのグループだけではない。木村ミサが手がけるグループは次々と熱狂を生んでいます。
木村ミサは、なぜこのような偉業を成し遂げることができたのでしょうか?
その答えは、言語化です。
木村ミサは「かわいい」という感情・感覚を精緻に言語化したのです。
木村ミサはKAWAII LAB.のプロデューサーに就任して以来
自分が「かわいい」と感じるものをひたすら言語化し続けました。
何がかわいいのか?反対に、何がかわいくないのか?
NGラインを明確にすることで、「かわいい」の輪郭を作っていったのです。
その結果生まれたのが、膨大な言語化の集積です。
内容は公開されていませんが、その中身は衣装、楽曲、SNSの見せ方、
メンバーの立ち振る舞いなど、あらゆること言語化したと言われています。
ファンが目にする全ての接点に、木村ミサの「かわいい」の基準が貫かれているのです。
「偉業」と言うべき言語化
私はこの言語化を「偉業」だと思っています。
言語化。それだけのことです。
しかしこの「それだけのこと」を、今まで誰もできなかった。
それはおそらく、木村ミサが言語化したものが「アート」だったからです。
ここで一つの概念を使って整理したいと思います。
経営学の大家ヘンリー・ミンツバーグは、
経営をアート・クラフト・サイエンスの三層で捉えています。
アートとは直感や創造性。クラフトとは経験や技術。サイエンスとは分析と再現性です。
かわいい産業は長らく、アートとクラフトの世界でした。
センスのある人間だけが、なんとなく作り出せる世界。
再現できない、教えられない、スケールしない世界です。
もちろんハロプロや秋元康は大ヒットグループを複数生み出しました。
ただ、日の目を見ることなく消えていったグループも同時に存在しています。
一方でKAWAII LAB.には、それがない。
KAWAII LAB.には現在、5つのアイドルグループが所属しています。
・FRUITS ZIPPER(2022年4月デビュー)
・CANDY TUNE(2023年3月デビュー)
・SWEET STEADY(2024年3月デビュー)
・CUTIE STREET(2024年8月デビュー)
・MORE STAR(2025年12月デビュー)
この5グループのうち、つい最近デビューしたMORE STAR以外の4グループは
単独アリーナ公演に辿り着いています。
しかもどのグループも、デビューから2年前後しか経っていません。
最短はCUTIE STREETで、1年2か月です。
KAWAII LAB.には、大ヒットグループしかいないのです。
これが木村ミサのやったことが「偉業」たる所以です。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」
名将野村監督も引用した、江戸時代の大名・松浦静山の名言です。
そして「成功はアート、失敗はサイエンス」
OWNDAYS田中代表も、同じ名言を残しています。
しかし木村ミサはこの壁を突破し、成功をサイエンスにしてしまった。
サイエンスの本質は「再現性」
つまり、何度同じことをやっても、同じ結果になるということ。
科学でさえ「主観的だ」としか言えなかった「かわいい」の領域に
サイエンスを持ち込み、見事に「科学」をして見せた。
自分のアートをクラフトに変換し
そのクラフトをサイエンスで広げることによって。
言い換えれば、木村ミサはアートをお金に換えたのです。
もちろん経営者であれば、多かれ少なかれアート的な感覚は持っているでしょう。
しかしそれを言語化し、他者が再現できる形に落とし込める経営者は
あまり見たことがありません。「アート」の領域では、特にです。
言語化によって、失うもの
実は言語化によって、失われるものがあることも、分かっています。
それはなにか?
マジックというのは、種が分からないから興奮するものです。
種さえ分からなければ
目の前に広がっている光景は、物理法則を超えた”何か”です。
ですが、誰もその”何か”を説明することができません。
だから興奮を生むのです。
しかし種明かしをされると、場が一気にシラけます。
「なーんだ、そんなことか」と興奮が冷めていきます。
実は、これと同じです。
種が分からない。
脳みそは「分からない」と言っているのに
魂が「素晴らしい」と言っている。
このギャップを、人は「崇高」と呼びます。
そして「崇高」こそ、人を惹きつける最も強力な感情です。
そして実は哲学の巨匠カントも、同じことを言っています。
※ 彼の原著は非常に難解なことで有名なので、論旨を要約した形で記します
「人間の理性や構想力が把握しきれないほどの圧倒的なものに直面したとき、人は畏怖と尊敬の念を抱く。それが崇高だ。崇高さとは、人間の認識を超えたものが生む感情なのだ」と
人は説明できないものに崇高さを感じます。
そして崇高さとは、人生で数えるほどしか体験できない特別な感情です。
圧倒され、震え、言葉を失う。
そんな人生において何度経験できるか分からない感情を
壊されたい人なんて、いるはずがありません。
私たちは「崇高」を守りたいのです。
たとえそれが「無知」と揶揄されるものだったとしても。
しかし設計されたと知った瞬間、その崇高さは消えてしまいます。
少し余談になりますが…
私自身も、白潟総研で「崇高さを守りたい」と思ったことがありました。
石川のコンサルティングをノウハウ化しようという試みに対して
「ちょっといやだな・・・」と思ってしまったのです。
もちろん絶対にやった方がいいですし、やるべきことです。
ですが石川のコンサルティングを間近で見続けて
「どうやったら、こんなコンサルティングができるんだ」と感じていた私にとっては
崇高さを奪われたような感覚だったのです。
もう一人の天才。いや、奇才
木村ミサは「アートをサイエンスした」という点で天才的でした。
一方で、「アート=崇高さ」を追い求めた奇才がいます。
それが、ちゃんみなです。
彼女がプロデュースした女性アーティストグループ「HANA」をご存じでしょうか。
そのオーディション風景はYouTubeにアップされ
一大ムーブメントを引き起こしました。
ちなみに白潟総研でもムーブメントが起こり
ドハマりした石川は「No No Girlsめっちゃ良い!」と勧めて回っていました笑
No No Girls1本目の動画で、ちゃんみなはこう語っていました。
「歌ってちゃんと自分と向き合わなければいけない
自分の魂から出てくる自分の歌声じゃないとダメ」
そして
「だから私はキレイに歌うとかどうでもいい。その人の人生が声に乗っていれば良い」
そのように選出されたHANAのパフォーマンスは、異質です。
異質で、圧巻です。
実際に最終審査のパフォーマンスでは
全ての候補者が「自らの魂」を楽曲に乗せていました。
ただこれだけでは、「異質で圧巻」には辿り着けない。
彼女たちが「異質で圧巻」なのは
魂が楽曲を上回ったからです。
楽曲を通して魂を露出させるのではなく
露出した魂が、楽曲を隷属させる。
まさに「崇高」です。
ではここで、実はちゃんみなが
「HANAには再現性を生む言語化の集積がある」と言ったら、どうでしょうか?
あの異質で圧巻なパフォーマンスが
実は再現可能なサイエンスだったと知らされたら?
多くの信者が冷めることでしょう。
それよりも、信者である以上、怒り狂う人も出てくるかもしれません。
これがアートの本質です。
言語化するとは、見る側が抱いていた崇高さを奪う行為なのです。
何を崇高とし、何を科学とするか?
では、「サイエンス」してはいけないのか?
そうではありません。重要なのは「使い分け」なのだと思います。
おそらく経営者の多くは
崇高さを生むアートと、再現性を生むサイエンスを共存させています。
問題は、その境界が言語化されていないこと。
言語化されていないがゆえに、経営幹部・社内で共通認識を作れないことです。
しかし木村ミサはそれができていました。
木村ミサは「かわいい」を徹底的に言語化しましたが
アートを根絶したわけではありません。
むしろ、徹底的に言語化をすることで
その境界を明確にしたのです。
実際に過去のインタビューでは、このような発言をしています。
「私が『こうしなさい』というより、メンバーの主体性を尊重することは常に意識しています。そうじゃないと、メンバーもパフォーマンスに『自分』を投影できないと思っているんです」
「運営や誰かに押し付けられた“アイドル像”ではなく、メンバー自身の素に近い状態を好きになってもらう。そうでないと、メンバーもアイドルとしての自分を心の底から楽しんだり、パフォーマンスに自分を反映したり、乗せることも難しいと思うんです」
かわいいのどこをアートとして守り、どこをサイエンスとして広げるか。
その地図を誰よりも明確に描いたのが、木村ミサなのです。
だから「かわいい」を言語化し種明かしをしながら
同時に崇高さを守ることができた。
実は社内や経営幹部同士のすれ違いがあるとき、
この「アートとサイエンスの境界線」が合っていないケースをしばしば目にします。
実際に石川と行っている自在経営コンサルティングで
「社長は自社のどこをサイエンスにしたくて、どこをアートにしたいですか?」
という質問をすると、ハッとされる経営者が、とても多い。
そして質問の答えは、経営者によって千差万別です。
「ほぼ全てをサイエンスにしたい」と答える経営者もいれば
「セールスの領域だけはアートにしておきたい」と答える経営者もいます。
つまり経営者の「らしさ」が如実に表れる部分なのです。
自社のどこをアートとして守るのか = 言語化してはならない崇高さはどこか。
自社のどこをサイエンスとして広げるのか = 言語化して再現すべきところはどこか。
この境界を言葉にし、社内で共通認識を作ること。
木村ミサは、その重要性を身をもって教えてくれたのです。
社長の会社では、その境界線はどこにありますか?
そしてそれは、言葉になっていますか?
最後に・・・
このブログが刺さった経営者と、話したいです。
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また来月もお会いしましょう!