吉田 耕太の物語
6度の転職を経て、結局は「人」だと思った私のすべて
みなさま、こんにちは!白潟総研の吉田です。
今更ながら、私の自己紹介をさせて頂こうと思います。
「やんちゃだった少年期の話」から「転々とした社会人生活」、そして「白潟総研の入社理由」などなど、これまで生きてきた私の歴史が詰まってます。
ここでしか知れない貴重な話もてんこ盛りです!
ちょっぴりボリューミーではありますが、、、ぜひ最後までお付き合いください!
1.とにかくやんちゃだった少年時代
幼少期の私は、とにかくやんちゃで活発な子どもでした。
それはもう、今の時代では考えられないくらい(笑)
両親が共働きで当時カギっ子だった私は、毎日団地の友達と大はしゃぎ。
粗大ごみを集めてきて、それを材料に木の上に秘密基地をつくったり、友達同士で大事なおもちゃを持ち寄っては箱に隠したり、知らない人の車の上にに飛び乗ってピョンピョンはねてみたり…。
さすがに、車の上で飛んだときは学校に呼び出され、警察にも怒られました(笑)
2.勉強0%、野球100%の青春
そんなやんちゃな子ども時代を過ごした私が中学生になるとどうなったかというと、今度は勉強嫌いの野球少年になったんです。
中学校で始まった英語は5W1Hで挫折、他の教科もことごとくダメ。
唯一得意だったのが体育です。
小学校2年生の頃から始めた野球は中学でも続け、毎日朝から晩まで勉強そっちのけで野球に没頭していました。今思えば、この頃から「みんなで何かを成し遂げる」ことが好きだったのかもしれません。
そのあと高校受験でなんとか入ったのが、東京都立志村高等学校。
けれども高校生になっても勉強嫌いは治らず、毎日のように悪さをしては、親が年に何十回と学校に呼ばれる日々を過ごしていました。
そのときに、先生から母親に幾度となくいわれた言葉がこれです。
「あいつはいいやつだけど、勉強が恐ろしくできない。目指すものがないから、結局遊びに走るんだ。」
この調子でスムーズに卒業できるわけがなく、しかし背に腹は代えられない。ということで、最後は先生に「留年だけはよしてください!なんでもしますから!!」と土下座までしました。
とはいったものの、まさか本当に、好きなだけコキ使われるとは思いませんでしたが(笑)
掃除や授業準備の手伝いに、校門をしめてこい!などなどわけのわからぬ要求までされて、おかげで私は無事、ダブることなく卒業することができました。
3.夢を追いかけて!でもお金が・・・
さあ、高校を卒業した私がどうしたかと言いますと、勉強をしたくないが故に「大学は行かずに、働こう!」と決心したんです。
最初に入ったのは、地元にあった自動車ミッションの修理工場です。
その当時から車が大好きで、「好きなことを仕事にしたい」と思って選んだのがこの会社でした。30人くらいの会社で、働いてる人はいい人ばかり。日中は仕事して、夜はみんなで麻雀大会というのが日課の毎日でした。
けれど、ひとつだけ問題だったのが給料の低さです。
初任給は、たしか手取りで10万5千円。
休みの度に渋谷や六本木で遊んでいた私には、これでは到底足りませんでした。
4.月収28万円にひかれて入ったアコギな世界
「とにかくお金が欲しい!」というおもいで雑誌をペラペラめくっていると、「基本給28万円」という高収入の求人が目に飛び込んできました。そのまますぐに応募をし、なんと結果は採用!
ですが、実はそれが「商品先物取引」を売りにした、世の中的に超あくどい会社だったんです…。
( ※「商品先物取引」とは、株取引の商品版のようなもの。将来商品を受け渡すことを前提に、その価格と数量を決め、商品に対して投資する取引のことです。)
働き始めてすぐに、そのヤバさに気づきました。
富士山のふもとで行われた研修では、「毎朝5時起きで声出し→10㎞マラソン→社歌→午後に少し商品先物取引の勉強→社歌」の繰り返し。これを3週間続け、初めは25人いた同期も気づけばわずか8人になっていました。
配属後も、毎日朝から晩までタウンページのア行から順に休む間もなく電話をかける日々。
そんな生活を繰り返すうち、段々とそれが「人をだますような商売」だとわかり、それが嫌だと思ったんです。けれども時すでに遅し。入社して2ヶ月、「辞めたい」と会社に伝えても一切取り合ってもらえませんでした。毎月毎月「辞めたい」と言い続け、やっと辞められたのが1年後。
給料は間違いなくよかったけれど、今思えばそうして「お金で引き留めて人を働かせる会社」だったんだろうな…と思います。
5.八丈島で“海の男”に俺はなる!
さて、あくどい仕事からやっとのことで逃れた私が次に選んだ就職先は、これまた雑誌で見つけた「漁師」の仕事。
高校時代から、「1度は一次産業で働いてみたいなあ…」と思っていたんです!
本当は山口で漁師になろうとしたんですが、さすがに当時の彼女(現・嫁)に止められまして、八丈島で漁師の仕事をはじめました。
このとき嫁さんのお母様にご挨拶に行ったんですが、見事に怒鳴られました。。。
「結婚もしないのに同棲なんてありえない!娘は絶対に連れて行かせない!!」とそれはもうすごい剣幕で。挙句の果てに塩までまかれました(笑)
それでもついてきてくれた嫁には、本当に感謝しています。
漁師の仕事ですが、夜中の3~4時ごろに始まります。この時間に漁に出て、戻ってくるのは夜7時。そのあと家に帰ってご飯を食べて風呂に入り、すぐに布団へ。そしてまた夜中2時に目を覚まして漁へ出発、という流れ。
休みはまちまちで、海がしけっている日と、とる魚がいない時期がお休みになります。
そんなときは工事現場でバイトをして、食いつないでいました。
6.“経営”の「け」の字も知らないコンサルタント
そんな漁師生活を5年ほど続けた頃ですかね。
歳も27くらいになり、「そろそろ結婚しなくては…!」と思ったわけです。
東京で挙式したのを機に「子どもも欲しいし、この不安定な生活のままではいけない」と東京に戻り、死ぬ気で就活に励みました。
このとき興味をもったのが、みなさんお待ちかね、経営コンサルタントです!
と言っても、このときはまだ「経営」という言葉さえ知りませんでした。
漁師時代に親方がお金のやりくりをしている様子をそばで見て、「どうしたら儲けが出るのか」にすごく興味があったんです。
片っ端から経営コンサルの会社を受けまくり、そのうち一つがトーマツ環境品質研究所(後のトーマツイノベーション)でした。この会社の最終面接で、当時まだ専務だった白潟さんと初めてお会いしました。一言も発しない社長の横で、すべて一人で進めていく白潟さんに対して、「なにやらよくわからないけど、すごい人なんだろうなあ」と思ったのを今でも覚えています。
この会社の面接には「絶対落ちた」と思ったので、翌日合格の電話をもらったときは本当に驚きました。ちなみに、あとから知ったんですが、どうやらこの年は「変わり者採用」だったようです。受けたのがこの年でなければ、いま私はここにいなかったかもしれません(笑)
7.コンサルとしてぶち当たったでかい壁
経営コンサルタントになれたのはいいけれど、しばらくは苦労の連続でした。
なんせ、経営の「け」の字も知らなかった私です。
知識なんて何一つないし、コンサルの要ともいえるロジカルシンキングも全くできていませんでした。上司に何か伝えようと思っても、「何を言ってるかわからない」と言われるのが常日頃。同期はみな昇格していき、自分ひとり取り残される現状にとても焦りました。
けれども支えてくれる同期がいて、私が常に考え続けられるようにといつでもどこでもロジシン・トレーニングに根気よく付き合ってくれる先輩もいて、周りの環境には恵まれていました。
それを3年ほど続けた頃、新しく立ち上げる大阪支社のメンバーに選んでもらえたんです!そのあと名古屋支社の立ち上げにも携わり、ついには東京支社の支社長に抜擢されました!
そして、その年に新卒で入社したのが、今では上司にあたる哲也さんだったりします。(いつの間にか立場逆転!く、くやしい。。。)
8.同期とともに、初めての会社設立
そんなある日、事件は起きました。
当時トーマツイノベーションの社長だった白潟さんの退任が決まったんです…!
代わりに社長に就任したのは、当時のNo.2。
けれど、その人と白潟さんはやり方も考え方も、何もかもが違いました。
「この人のもとでは働けない」と思い、私も白潟さんを追うように退職を決意。
そして辞める宣言をすると、「その言葉を待ってたよ!」と同期に言われたんです。
「一緒に会社を立ち上げよう」と誘われ、四国で「ストロングポイント」という経営コンサルタントの会社を始めました。
しかし、そんな簡単に会社が立ち上がっていくわけもなく、キャッシュに追われる日々でした。銀行に行って何とかお金の借り入れができないか交渉したり、キャッシュアウト寸前で年金事務所に掛け合って、社会保険料の支払いを先に伸ばしてもらたり・・・私の四国と東京の往復で経費がかさんでいましたが、地方ではよそ者が受け入れてもらいにくかったり・・・それはもう事業をやっているというより、お金を何とか回しているという日々でした。。。
ちなみに、ストロングポイントは今では立派な会社になっています(笑)
9.極論、何をやるかはどうでもいい!結局は誰と働くか!
そんな状態が5年ほど続き、「同期の方からは絶対にやめるとは言わないだろうから、自分がやめようと言わなければ…」と白潟さんのもとへ相談に行ったんです。
すると、「うちに来ないか?」と誘ってくださいました。
続けざまに、哲也さんからも「来なよ!」と電話が。
そうして私は、白潟総研に入社することを決めました。
決め手は、「人」です。
トーマツ時代の社長バトンタッチを経て、「極論、何をやるかはどうでもいい。誰と働くかが何より大切だ」と強く思いました。
同期と会社をおこすことを決めた時もそうでしたが、白潟総研への入社も、「白潟さんと哲也さんと一緒に働きたい」という想いからの決断です。
10.これから目指したい未来
こんな私も白潟総研で働き始めて長い月日が過ぎました。
これまで様々なことを経験してきましたが、最後に、これから目指す会社の未来について少しお話したいと思います。
まず、極論ではありますが、「中小・ベンチャー企業の社長が元気になればそれでいい!」と思っています。
これは私の経験した人生で生まれた強いおもいですが、「人を大切にし、人が強くつながりあい、世の中からはみ出た者でもチャンスが与えられる会社が、世の中に沢山できればいい」と思っているからです。
これを実現するセンターピンはやはり社長ではないでしょうか!?
必要なことは時代とともにどんどん変わっていきます。
だからこそ、その時そのときに必要なことをして、中小・ベンチャー企業の社長を元気にできれば、それが私のやりたいことです。
あとは強いて言えば、自分の人生や人を沢山見てきた経験から、「人を前向きにし、成長を促進していくこと」に興味があります。人は一者一様で正解はないですが、1人でも2人でも多くの人にチャンスや場が生み出せたら嬉しいです!
みなさま、これからもどうぞよろしくお願いいたします!