中西 順也の物語

銀行員から経営者になりたかった私が見つけた答え

これは、私がなぜ安定した銀行を辞めてコンサルタントとして白潟総研に転職を決めたのか、そして仲間と出会ってどう変わったのかを、自分自身の生い立ちも交えてお話しするストーリーです。

■ とにかく熱中したら止まらない――僕という人間

私は東京生まれ、福井県育ち。

幼い頃から、何かにハマると止まらないタイプでした。

小学生のころは、陸上とバスケットボールに夢中でした。

両競技で全国大会出場という経験もあります。

当時は練習しすぎて、疲労骨折を3回もしてしまったほど(笑)。

無茶でしたが、それだけ「勝ちたい」「上を目指したい」という気持ちが強かったんです。

この「熱中力」は、今も変わりません。

仕事でも趣味でも、夢中になったらとことん突き詰める性格です。

■ なぜ白潟総研だったのか?

私が白潟総合研究所に惹かれたのは、“子会社社長”という制度に出会ったからです。

好きな「社長のコンサルティング」という仕事をしながら、

同時に自分自身も経営者として学び、挑戦できる環境がある。

これは私にとって、本当に“目から鱗”の制度でした。

■ なぜ、名古屋支社を立ち上げたのか?

私が支社を立ち上げたのは名古屋です。

その理由には、少し個人的な想いがあります。

実は、大学時代を愛知県で過ごしました。

本当は、卒業後も名古屋で就職したかったのですが、その想いは叶わず…

関西の地方銀行に入行することになりました。

それでも名古屋への想いは強く、

毎週金曜の仕事終わりには大学時代の友人に会いたくて名古屋へ通っていたほどです。

「いつか、名古屋で働きたい」

「この街でもう一度、自分の居場所をつくりたい」

そんな心残りのような想いが、ずっと胸の中にありました。

だからこそ、「独立するなら名古屋で」と決めていたんです。

自分の“第二のふるさと”である名古屋で、地域の企業に本気で寄り添いたい。

それが、私の原点です。

■ 銀行から経営者になりたいと思った理由

銀行員として10年間、法人営業に携わってきました。

資金繰り、事業再生、M&A支援など、さまざまな経営課題と向き合ってきた中で、

次第に強く思うようになったのが、

「自分も経営者になりたい」

という想いでした。

この気持ちには、大きく2つの理由があります。

【理由①】家系が商売人。血が騒ぎ出した

私の親族は、商売人の家系です。

子どもの頃から「自分の店を持つ」「自分で商売をする」大人たちを見て育ちました。

銀行に入り、企業支援の現場に立つ中で、

徐々に商売人の血が騒ぎ出してきたんです。

「支援する側じゃなく、自分が当事者としてやってみたい」

「経営にど真ん中で関わって、勝負したい」

そんな気持ちが、どんどん膨らんでいきました。

【理由②】“自分の価値”を確かめたかった

もうひとつの理由は、

「自分という存在が、ビジネスの中でどんな価値を持てるのかを知りたかった」

という純粋な探求心でした。

銀行員として働いていると、

肩書きやブランドがついてくる分、「個としての価値」が見えづらくなってしまう瞬間があるんです。

「自分という人間が、何を提供できるのか」

「看板を外しても、選ばれる存在でいられるか」

それを試したくなったのも、転職を決意した大きな理由のひとつです。

■ 目指したのは「名古屋No.1のコンサル会社」

目指したのは、名古屋で一番頼られるコンサル会社。

机上の空論ではなく、現場で汗をかきながら成果を出す。

そんな“実行支援型”のコンサルティング集団をつくることを目標に掲げました。

■ M&A業界初?チーム制の導入へ

東京メンバーとは、M&A仲介業界では珍しい「チーム制」を導入しました。

マーケティング、営業、コンサル、事務――

それぞれが得意分野を生かし、ひとつの目的に向かって一体化した組織をつくったんです。

その結果、顧客満足度や成果も格段に向上。

そしてなにより、

「中小・ベンチャー企業の社長を元気にする」目的意識をもったメンバーと働くって最高だと、私が実感していることです。

お互いに信頼し、支え合いながら、ひとつのゴールに向かって走れる。

それが、私にとっての最高の働き方です。

■ 名古屋という“第二のふるさと”で挑み続ける

名古屋は、私にとっての“第二の地元”です。

大学時代を過ごし、戻りたいと願い続けたこの街で、

今、私は仲間たちと一緒に、本気で走り続けています。

「名古屋でNo.1のコンサル会社をつくる」

その目標を実現するために走り続けます!!